現場の勘や経験知をIoTで財産化する - 製造業における暗黙知活用術
現在、日本の製造業界では熟練技術者の高齢化と人手不足が深刻化しています。
経済産業省の「2024年版ものづくり白書」によると、この20年間で製造業の高齢就業者は増加し、就業者数は減少。34歳以下の若年就業者数も同じく減少傾向にあり、今後多くの熟練技術者が退職すると予測されています。
こうした状況の中、長年の経験から培われた「暗黙知」と呼ばれる"見える化・定量化"しにくい知識・技能の伝承が大きな課題となっています。暗黙知とは、マニュアルや文書では表現しきれない経験則や勘所のこと。製造現場では製品の品質や生産効率に大きく影響します。
そこで本記事では、IoTやAI技術を活用して、熟練技術者の持つ暗黙知を見える化し、企業の貴重な資産として活用する方法について解説します。
製造現場における暗黙知の種類と重要性

製造現場には様々な暗黙知が存在します。
例えば、キズや印字ミスなどの目視検査における重点確認ポイントは、経験豊富な検査員が感覚として持つ暗黙知の一つです。製品の角度や光の当て方を微妙に変えながら、特定の箇所を注視することで不良を効率的に発見できます。
また、商品開発時の事前検証テストにおいて、温度・水圧・速度等の因子から「何を優先的に検証すべきか」を選定する“勘”も、過去の失敗や成功体験から培われた暗黙知です。
他にも、製品ごとの仕様書から発注時に記載すべき重要ポイント(例えば、輸送方法によるパッケージングの違いや特殊ネジの取り扱いなど)の把握をはじめ、経験を積まないと気づきにくく、文書化されていない知識が数多く存在します。
こうした暗黙知を活用できない企業は、生産性の低下や競争力の喪失に直面します。一方、暗黙知を効果的に活用する企業では、不良品率の削減に成功しています。
適切な因子選定による開発期間の短縮、特殊部品の取り扱いノウハウの共有による輸送中の破損削減など、暗黙知の活用は“競争優位性の源泉”と言えるでしょう。
暗黙知の見える化・伝承・活用手法
暗黙知を次世代に伝え、企業の資産として活用するために、様々なテクノロジーが注目されています。
IoTセンサーによるデータの検知・モニタリング
温度、振動、音響、圧力などのセンサーを活用し、熟練技術者が感覚的に行っている判断や調整を数値データとして見える化する手法です。
例えば、塗装工程における最適な温度や湿度の範囲、プレス加工における微妙な振動パターンなど、熟練技術者が「肌感覚」で判断していた要素をIoTセンサーでデータ化。リアルタイムモニタリングにより、製造条件の逸脱を早期に検知し、品質問題を未然に防止できます。
また、プレス成形時の微細な振動パターンをIoTセンサーで計測・分析し、熟練技術者の「良い音」「悪い音」の判断基準を数値化することで、不良率の削減が可能になります。
AI・機械学習による暗黙知のパターン化
製造業の現場では、収集したデータをAI・機械学習で分析し、熟練技術者の判断パターンをアルゴリズム化する取り組みが実用段階に入っています。
特に、新素材開発や材料探索の分野では、これまで研究者の経験則に頼ってきた試行錯誤のプロセスに代わり、AIによる膨大な組み合わせシミュレーションの活用事例が出てきています。
例えば、化学薬品を扱う製造工場では“ベイズ最適化”などの手法を用いて、材料の物性と構造データを組み合わせることで、人間では思いつかない最適解を発見しました。
また、画像認識AIを用いた製品検査も普及し始めており、経験豊富な検査員の「目」をデジタル化することで、24時間安定した品質検査を実現しています。
こうしたAI技術は各社が実用段階に入りつつあり、熟練技術者の暗黙知をデジタル資産として活用する成功事例は今後さらに増えていくでしょう。
AR・VRなどの仮想技術を用いた研修システム
拡張現実(AR)や仮想現実(VR)技術を活用し、熟練技術者の視点や動作を追体験できる研修システムが注目されています。
ARを用いれば、実際の機械操作時に重要なポイントや注意点を仮想空間で臨場感を伴いリアルタイムで表示でき、VRを活用することで危険な状況や異常事態のシミュレーションも安全に体験できます。
こうした技術により、「百聞は一見に如かず」の原則を体現した“効果的な技能伝承”が可能です。新人・若手技術者は熟練技術者と同じ視点で作業を疑似体験でき、従来よりも技能の習得スピードが上がるでしょう。
ここで紹介した技術は、製造現場の「デジタルツイン」構築の基盤にもなり得ます。「デジタルツイン」とは、実際の物理的な設備や製造プロセスの仮想的な複製のこと。製造業にデジタルを活用し“スマートファクトリー”を実現する技術です。
動画の活用やナレッジサイト等のDX化
その他、暗黙知を動画や写真でデジタル技術を用いて共有する方法もあります。
例えば、熟練技術者の作業を高解像度カメラで記録し、重要なポイントにマーカーや解説を付加した動画マニュアルは、言葉では表現しにくい微妙な動きや力加減を伝える効果的な手段です。
また、社内ナレッジサイトを構築し、検索可能なデータベースとして整理することで、必要な情報に素早くアクセスできます。こうした取り組みは初期投資が比較的低く、中小企業でも導入しやすいDX施策と言えるでしょう。
暗黙知の伝承・活用事例
それでは、実際に暗黙知の伝承・活用に成功した具体的な事例を見ていきましょう。
IoTセンサーによるデータの検知・モニタリング
ある建機メーカーの工場では、熟練技術者が経験から培ってきた設備トラブルの予兆を感知する「勘」という暗黙知をIoT技術で見える化することに成功。
熟練技術者が持つ「何か異常の予兆がある」という感覚的な判断基準を、センサーデータとして数値化・パターン化し、若手社員でも同等の予防保全が可能になるように暗黙知を形式知化した事例です。
従来は熟練技術者の経験則に頼っていた設備の異常予知を、IoTセンサーによるデータ収集・分析システムに置き換えることで、「設備起因のライン停止をゼロに」という目標を掲げています。
復旧までに長時間を要し、生産性に大きな影響を与えるライン停止を防ぐとともに、属人的な技能に依存せず、組織全体で設備トラブルを未然に防止できる体制の構築に成功しました。
AR・VRなどの仮想技術を用いた研修システム
物流・プラント事業を手がけるある企業は、トラックやフォークリフト作業に関するVR安全教材システムを自社開発しました。熟練技術者が経験から身につけた危険予知能力という暗黙知を見える化し、現場感のある教育コンテンツとして再現しています。
従来の紙マニュアルや動画では伝えきれなかった“微妙な距離感”や“危険の予兆”といった熟練技術者のノウハウを、VR空間で体験的に学べるようになりました。
2023年までに100本近くのコンテンツを揃え、全国6つのエリアにVR視聴環境を配布した結果、視聴した従業員の80%近くが「安全意識が向上した」と回答し、安全教育として効果を発揮しました。
動画の活用やナレッジサイト等のDX化
動画やナレッジサイトは広く活用されていますが、「電子黒板」というツールも活用されています。ある製造業の企業では、熟練技術者の暗黙知を見える化するため、工場新設時にミーティングスペースへ電子黒板を導入しました。
生産数の増減や工数変更時には毎日の情報共有や伝達が不可欠です。しかし、この企業では工場内でスピーディーに共有・伝達ができていない状態でした。
そこで高解像度カメラを搭載した電子黒板を活用し、熟練技術者の微妙な調整ポイントや注意事項をリアルタイムで記録しました。
朝礼で得た情報を現場にすぐ持ち帰ることで、生産数の増減や工数の変更に対応し、シフト制の交代要員にも変更点を迅速に伝達できるようになり、熟練技術者の知識を組織全体で活用できる体制が整いました。
AI・機械学習による暗黙知のパターン化
収集したデータをAI・機械学習で分析し、熟練技術者の判断パターンをアルゴリズム化する取り組みが進んでいます。
特に、新素材開発や材料探索の分野では、これまで研究者の経験則に頼ってきた試行錯誤のプロセスを、AIによる膨大な組み合わせによるシミュレーションで活用する事例が出てきています。
各立場からみた暗黙知活用のメリットと導入プロセス
暗黙知のデジタル化は、製造現場の様々な立場の人々に異なるメリットをもたらします。
こうした取り組みを最新の生産管理システムと連携させることで、各部門の暗黙知を統合し、企業全体の競争力強化を実現できます。
ここからは、暗黙知を活用するメリットについて解説します。
品質管理担当者向け
品質管理担当者の視点では、検査基準の標準化と属人性の排除が最大のメリットとなり、統計的品質管理との組み合わせにより、不良率の大幅な削減が期待できます。
導入には検査ポイントの明確化と数値化が重要です。経験豊富な検査員が持つ“目”をAIカメラシステムやセンサーで数値化することで検査精度のばらつきが解消され、常時一定品質の検査が可能です。
導入にあたり、まずは検査員の「見るべきポイント」や「着目すべき特徴」を明確化し、それらを数値化・パラメータ化することが重要です。経験豊富な検査員と若手検査員の判断基準の違いを分析し、その差異をAIモデルに反映させることで、検査品質の向上が期待できます。
設備メンテナンス担当者向け
設備メンテナンス担当者の視点では、異常予兆の早期発見と計画的な保守が可能になり、設備稼働率の向上に直結するメリットがあります。
成功の鍵は、熟練技術者の「音」や「振動」による判断を段階的にデジタル化することです。導入を成功させるポイントとして、まずは熟練技術者による「これは危ない音だ」という判断を段階的にデジタル化することが重要です。
初期段階では簡易的な振動センサーから始め、取得したデータと熟練技術者の判断を紐づけながら徐々に精度を高めていくアプローチが有効です。
現場責任者・監督者向け
現場責任者の視点では、生産性向上と人員配置の最適化が実現し、熟練技術者不在時でも一定の品質維持が可能になるメリットがあります。
導入のプロセスは、まず重要工程の特定からスタートし、熟練技術者との信頼関係を築くことが不可欠です。
熟練技術者の判断基準や調整ノウハウがデジタル化されることで、若手技術者でも一定レベルの品質と生産性を維持できるようになり、シフト編成の柔軟性が高まります。特に人手不足が深刻な現場では、熟練技術者を「キーパーソン」として特定工程に固定する必要がなくなり、より戦略的な人材配置が可能になります。
導入プロセスでは、まず暗黙知が特に重要な工程を特定し、そこから段階的に取り組むことが重要です。
この際、熟練技術者との信頼関係構築が欠かせません。「技術を奪われる」という不安を払拭するために、「個人の技術を企業の財産として正当に評価する」という姿勢を明確に示すことが成功のポイントと言えるでしょう。
暗黙知の伝承・活用における要諦
暗黙知の伝承・活用の成功には、いくつかの重要なポイントがあります。最も重要なことは、熟練技術者と若手をつなぐ「橋渡し役」の存在です。
技術的な知識とコミュニケーション能力を兼ね備えた中堅人材が、熟練技術者の暗黙知を引き出し、デジタル技術を活用して“形式知化”するプロセスをリードすると良いでしょう。また、一度に全ての暗黙知を“見える化・定量化”しようとするのではなく、ビジネスインパクトの大きい領域から段階的に取り組むことも重要なポイントです。
また、熟練技術者のモチベーション維持も成功の鍵となります。単に知識を「抽出」するのではなく、熟練技術者自身が「教える側」として主体的に参加できる環境づくりが必要です。知識提供に対する適切な評価や報酬、社内での地位向上などの仕組みも検討すべきでしょう。
デジタル化した暗黙知は「完成品」ではなく、継続的に更新・改善していくものという認識が重要です。現場からのフィードバックを取り入れ、常に進化させる仕組みを構築することで、長期的な効果が得られます。
技術的側面では、使いやすさと現場への負担軽減が重要です。複雑なシステムは現場での活用が進まないため、直感的に使えるインターフェースや、既存の業務フローに自然に組み込める設計が求められます。
セキュリティー対策も忘れてはなりません。暗黙知は企業の競争力の源泉であり、適切なアクセス制限やデータ保護策を講じることが不可欠です。
まとめ
製造現場における暗黙知のIoT・AI活用は、日本のものづくりの強みを次世代に伝承するための重要な取り組みです。
IoTセンサー、AI・機械学習、AR・VR技術、その他DXツールなど、様々なアプローチを組み合わせることで、熟練技術者の「技」と「知恵」を“見える化・定量化”し、企業の貴重な資産として活用できます。
これらの取り組みは、単なる技術伝承にとどまらず、生産性向上、品質安定化、開発期間短縮など、多面的な効果をもたらします。特に人手不足が深刻化する中、熟練技術者の暗黙知を効率的に伝承することが大切です。
「技術で人を置き換える」のではなく、「人の技術を技術で拡張する」という発想で取り組みましょう。
最後に強調したいのは、テクノロジーはあくまでも手段であり、目的は「人」の知恵や経験を活かすという点です。熟練技術者と若手、人間とテクノロジーの共創により、日本のものづくりに“新たな強み”を築いていくことが重要です。
まずは自社の製造プロセスにどのような暗黙知が存在するか、それがビジネスにどのような影響を与えているかを分析することから、暗黙知を伝承・活用する第一歩を踏み出してみませんか。
出典:経済産業省「2024年版ものづくり白書 P40・P41 」
著者プロフィール

原田 正和
ITコンサルタント/エンジニア
東京大学卒業後、多彩なキャリアを通じてIT・DX分野の知見を蓄積。Big4コンサルティングファーム(監査法人)でのITコンサルタント、ITスタートアップでのエンジニア、エネルギーファンドでのシステム部長を歴任。SaaS導入支援やデータ基盤構築のコンサルティングを手がける。Microsoft365/Azure/Power Platformのエンジニアとしても活動中。マニュアル動画視聴システムの個人開発・販売実績を持ち、各種SaaS導入支援やDX伴走支援を通じて、企業のデジタル化を支援している。
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